人は人、自分は自分。それでいいじゃないか。

この世の中で生きていると、本当につくづく思う。「人は人、自分は自分。それでいいじゃないか」と。

自分の思う「こうすべき」「これは間違っている」という物差しで他人を評価して、いちいちお説教をしたり断罪しようとしたりケチを付けたりする人が多すぎる。その行為の背景には、純粋な正義感というよりも嫉妬や承認欲求が潜んでいるような気もする。

人間は皆それぞれ違うのだという、当たり前すぎる事実をもしかして知らないのだろうか、という疑いすら持ってしまう。人間は皆それぞれ違うことさえ知っていれば、いちいち他人と比較して嫉妬したり、わざわざ表面的な正義感をかざしてまで他人からの承認を求めようとも思わないのではないか。

特にツイッターを見ていると本当にそう思う。赤の他人がちょっと何か悪目立ちしたら、自分の物差しを正義として疑わない人々からの袋叩きにあってしまう。

単なる感覚だけど、日本人は特にそういう面があるように感じる。日本民族としての同質性。みんな同じであるべき。という無意識が日本人には色濃いように思う。

他人事のように書いているけど、僕だって日本人だ。でも僕の中には、みんな同じという発想はほとんどない。全くないとは言わないけれど、感触として、日本世間の標準と比べるとそういう感覚が1桁か2桁は弱い。

 

ここ数年に渡る某ウイルス騒動によって、上述したような思いをより強く持つに至った。ワクチンを打ちたい人は打てばいい。マスクを付けたい人は付ければいい。法に触れる話ではないし、倫理に触れる話ですらない。メリットがデメリットを上回るという100%の確証があるわけでもないのだから、法の範囲内での判断は個人の価値観に委ねられている。

しかし世の中はご覧の有様だ。マスク警察にうんざりすると同時に、「マスクはバカの証拠」と声を上げるノーマスク過激派にもうんざりだ。結局のところ根本は同じで、「みんな一緒」「みんなこうすべき」という発想がある。

ここ最近の国葬についても同様だ。僕は賛成だしデジタル献花をしたし、そもそも賛否両論になるような話とも思えない。でも反対の人がいてもいいじゃないって思っている。まあこの件については、反対派の言い分を聞いてみても僕のゆるい頭には主張を理解できないのだけど、それもいいさ。色々な考えの人がいるのが人間なのだから。

ただ、献花を妨害するのはダメだろう。妨害しちゃったら、「弔意の強制許さない」と書いて投げたブーメランが返ってきちゃうのでは? 弔意の強制は許さない。しかし弔意を示さないことは強制する。そういうことだろうか。

いや、別に国葬反対ブーメランはどうでもいい。好きにしてください。そもそも僕のこの意見だって「人は人、自分は自分。それでいいじゃないか」と言いながら他人(というか世間全体)を論じているわけだから、ブーメランが返ってきている。ブーメラン仲間だ。

 

まあとにかく、僕がここで書いているのは、「本当にしょうもない世の中だよなあ」という雑記だ。

ここ数年の騒動によって、僕の中に元からあった厭世観は一層強まった。かといって、こんな世の中をどうにかしようと奮起するほどの思い入れも活力もない僕の処世術は、「ただ距離を取る」。これ。

テレビは見なくなった。ツイッターのトレンドはアラビア語にしている。会社は辞めた。

人間一人の人生なんて短いし、僕はもう人生の後ろ半分に突入しているだろうから、残りの半生は、好きになれない「世の中全体」とは距離を取りつつ、自分にとって好きだと思える「個人たち」と個人的な交流をしながら生きていきたい。この結論を言いたくて書いてきました。以上です。