行為それ自体が目的になることだけしていたい

行為には2種類ある。

  1. 目的のための手段としての行為
  2. それ自体が目的な行為

僕はもう、それ自体が目的な行為だけして生きていたい。そういう願望がある。

「なぜそれをやっているのか?」と問われたら「やりたいからだ」と自信をもって即答できることだけをしていたい。

なぜかというと、手段としての行為よりも、それ自体が目的になる行為のほうが楽しいからだ。当たり前だけど。余計なことをゴチャゴチャと考えず、行為そのものに集中できる。成果みたいなものを生まなければならないプレッシャーとも無縁でいられる。

手段としての行為はやってて疲れる。楽しいからやるのではなく、目的達成のための必要に迫られてやるわけだから。催促されてるような感覚があり、それが疲れる。やりたいからやってる行為と比較して楽しくもない。

あと、手段としての行為は、焦点が「今」ではなく「将来」に当たっている。その時間の使い方も好きではない。今を将来のための道具にするのは非合理的だと思っている。将来なんて存在するかも不明だし、存在したとしても今より歳を取り衰えてもいるのだから。将来のために何かをするのではなく、今やりたいことを今やりたい。

あと、僕は怠惰なので、手段として何かをやろうとしても続かない。金を稼ぐ手段として昔やっていたアフィリエイトブログはつまらなすぎて10記事も書く前に嫌になってやめた。一方でこのブログはただ書きたいから書いてるだけで、とりあえず1年以上は続いた。目的がないから、書きたい気持ちを失ったり文章執筆能力を失わない限り一生続けると思う。

金目的で始めたアフィリエイトブログは金を稼げるようになる前に嫌になってやめて、ただやりたいからやってるこのブログは月5000円ぐらい稼げるようにいつの間にかなっていた。稼ぐ手段として義務感でやったら稼げず、ただやりたいからやってたらお小遣いが入るようになったのは皮肉な結果だ。

もちろん、何かの目的があって、その達成のための行為を頑張ることを一切やらないのは無理だけど、そういう行為であっても、その行為自体を可能な限り楽しみたい。そういう意識で暮らしていきたい。

先日、歯茎を切開し、骨を砕きながら虫歯になった親知らずを抜いてもらった。こんなものは「歯の健康を保つ」目的のための手段であり超やりたくなかったけど、もう覚悟を決めて、開き直って、「これも一つの人生経験として味わおう。そして親知らずを抜く苦労を雑談のネタにして友達と盛り上がろう」と切り替えて、抜いてきた。思ったより楽だった。恐れるほどのものではなかった。痛みや頬の腫れの推移を日々観察しながら、傷を自然治癒していく人体の神秘を楽しんだ。

もっと色々書こうと思っていたけど眠くなってきたので以上です。眠くなってきたら書くのをやめる。そしてそれを堂々と書ける。行為自体が目的で、ただやりたいからやってるとこういう身軽さがある。何かの手段としてやってると「でも頑張って書こう」とか無理をして疲弊して終わる。

ごくたまに「YouTubeでメンバーシップやってほしい」という要望を受けて、そうやって気に入っていただけることはとても嬉しいのだけど、僕には無理だ。メンバーシップって、月額会員の会費を先払いしてもらうわけでしょ。無理だ。

「金を貰ってしまってるのだから、今月はあと何本作らないといけない」という状況が嫌すぎる。僕は作りたいときに作りたいものを作っていたい。そして眠くなったら終わりたい。ということで終わり。

 

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