生活のための仕事に生活が支配される矛盾に溢れた社会の中でどう生きるか

矛盾した社会

今の日本社会って、生活のための仕事に生活を支配される矛盾状態に陥っている人が大量にいると思う。2年と少し前に会社を辞めるまで、僕もその矛盾に陥っていた。

そもそも何のために生きているのかというと、それは人それぞれあるだろうけど、「納得感を持ちながら、楽しく日々を暮らしたい」という点においては大半の人に共通するはず。

で、そういう日々を暮らすためにはある程度のお金が必要になるので、そのお金を得るために仕事をする。しかしその仕事で時間も気力も体力も使い果たし、健康も犠牲にして、楽しく生きられなくなる。

この矛盾に陥っている人って、現代日本社会の中で何人いるのだろうか。そういう調査が行われているなら数字を見てみたい。軽くググってみた限りでは見当たらなかった。単なる感覚だけど、労働者の半分以上が該当しそうな気すらする。だとしたら超大きな社会的な問題だ。大量の日本国民の生活が犠牲になっている。

僕も以前は「生活するためには金が必要で、金を得るためには働く必要がある」という常識に従って、自分にとってはたいして重要事でもない会社の仕事を週5日間も朝から晩までやっていた。

それで心身ともに疲弊して、仕事外の時間は疲れを癒すためだけのものになっていた。酒を飲んだり、寝たり、ダラダラしたり。娯楽についても、金を使って手軽に得られる消費者的娯楽で頭空っぽにして受動的に遊んでるだけ。

別にこういう休日の過ごし方を悪いとは言わないけど、こればっかりだと虚しさはあった。「自分なりの活動」をしていないわけだから。ただ動物的に休息したり、消費者として受動的に楽に遊んでるだけ。

平日は生活のための仕事をして、休日は仕事で受けた疲れを癒して次の平日に備える日。完全に生活のための仕事が生活の中心になっていた。

仕事を自分事と捉え使命感や誇りを持ちながらやっているのなら、それが生活の中心になるのも1つの選択肢としてアリだとは思う。仕事かどうかに関係なく、使命感や誇りを持って取り組める活動にフルコミットするのって1つのカッコいい生き方だとは思う。僕には無理だけど。僕はのんびり散歩しながら景色を眺めていたいタイプ。

でも以前の僕の場合は、会社の仕事なんて正直に言ってしまうと全く自分事だと思っていなかった。完全に他人事で、雇用契約に則って労働力を提供しているだけぐらいの感覚だった。使命感とか誇りとかとは真逆。

そういう類の仕事をするのも生活の糧を得る手段としてアリだけど、それを生活の中心にしてしまうのは勘弁だよ。そしてそんな勘弁な状態に以前の僕は陥っていたし、今現在陥っている人が大量にいるようにも思う。

どうすれば矛盾した社会を変えられるのか

矛盾に気付かないと始まらない

どうすればこの矛盾した社会を変えられるのかというと、そんなもの僕には分からないけど、第一にはまずこの矛盾状態を自覚することであるのは間違いない。「生活のために仕事をしているはずなのに、その仕事に生活を支配されるのっておかしくない?」と気付かないことには何も始まらない。

さすがにその矛盾にはみんな気付いてるだろうと思いたい気持ちはありつつ、多分そんな事はない。きっと気付かないまま生活のための仕事に生活を支配されている人のほうが多数派な気がする。以前の僕がそうだったから。10年以上も矛盾状態で生活をしてきてて、気付かなかった。「生活のためには仕事する必要がある」で思考停止していた。仕事で余力を失うので、気付けないんだよね。考える力を失い、ただ仕事→休息→仕事→休息を繰り返すだけになりやすい。

仕事が嫌過ぎて退職して無職になって貯金が尽きて再就職するムーブを2回したり、適応障害という診断を受けたり休職したり、母親との死別により「人は死ぬ。死んだら人生が終わる」という現実を直視したり、そういう経験を経て、ようやく矛盾に気付けた。僕の場合は。

ということで、この矛盾って案外気付きにくい。だからこうして時おり発信して矛盾の存在を明るみに出そうとしている。多くの人が自覚しないことには今のままの状態がずっと続くだろうから。

仕事はもっとゆるくやってもいい社会になってほしい

日本人の勤勉さと、資本主義のもとで効率化を追求する方向が悪魔合体しているようにも思える。効率化のために分業化して、それによって仕事は全体像を失って機械的で退屈なものになりやすい。やりがいを得にくい。また、利益を増やすために少ない人で多くの仕事を処理しようとするので忙しい。

つまり、勤勉さによって、退屈で忙しい仕事を我慢してこなしている。これが今の日本の状態だと思う。

今、以下の本を読んでるのだけど、同じ資本主義で工業国のドイツでは随分と状況が異なるらしい。

『ドイツ人はなぜ、年290万円でも生活が「豊か」なのか』

この本によると、ドイツ人は質素な暮らしをしてあまりお金を使わないようにしながら、最低限の労働しかしないらしい。DIY(Do It Yourself)の精神やスキルが社会の中に根付いていて、DIYの言葉通り自分で出来ることは自分でやってしまうらしい。家の不備があっても自分で修理したりなど。

仕事の負担を減らして自由時間を確保する価値観が社会の中で根付いているため、仕事の質が悪くてもそれを受け入れてもいるらしい。仕事の質が悪いということは、言い換えると仕事する側は楽なわけだから。

本に書かれている例をいくつか引用すると、

  • 少額の支払いに100ユーロ紙幣を出したら店員から怒られる。
  • いくらレジ前に行列ができてても、手の空いてる店員がヘルプに来たりはしない。
  • 平日夜8時以降と日曜祝日は店を開けてはいけないと法律で決まってる。
  • 郵便局からの配達を受け取れなければ、不在者票を持って自分から取りにいくしかない。再配達はしてくれない。配達人がサボって不在者票を入れてくれないこともあり、そうなるともう受け取れない。送り主に返送されておしまい。
  • 電車に走って飛び乗ると車内放送でキレられる。

など。つまり「お客様」扱いされないどころか、客扱いすらされない。面倒くさいけど一応仕事だから最低限のことだけやってやる(たまにサボる)他人、ぐらいの感覚なのだろうか。

僕はドイツに行ったことがないので本の内容が本当なのか判断できないけど、わざわざ嘘はつかないだろう。90年からドイツに住んでる方が書いてる本なので、実際にその通りなのだと思う。すげえ社会だ……。

僕は常々「日本はサービス過剰すぎる。お客様扱いなんかしてくれなくていい。電車が遅れてもいいし、店は12時から17時営業でいいし、店員は座って雑談しながら対応してくれればいい」と思っているのだけど、そんな僕からしても、ドイツってすげえなって思う。

別に日本人がドイツ人の労働観を真似する必要はないし、無理だと思う。日本人が育んできたメンタリティとは相いれない。国民性があるのだから、それに反したことを無理して真似しなくてもいい。

ただ、今の日本はさすがに過剰すぎる。お客様扱いされて懇切丁寧なサービスを受けるのは客側としては楽でも店員側には心にも体にも負担が掛かる。それがよくない。おもてなし精神は大切にしつつも、お客様扱いはいらないと思う。店員も客も対等な人間同士なのだから、お互いに尊重しあい、おもてなししあう形が日本的だと思う。客が威張ってるのは日本的ではない。店員と客で協力して目的達成する形が日本的な理想だと思える。

たとえば、郵便局に関しては時間指定した上でその時間には届けてもらいつつ、それで受け取れなかったらこちらから取りに行くとか。それでいいよ、受け取れなかった側の責任なのだから。そこは客側が協力すべき。

みたいな感じで、サービス提供側がへりくだりながら便利すぎる対応を無理してするのではなく、対等な関係で互いに目的達成に向けて相手を尊重しながら協力しあう考え方になれば、多くの仕事が今より楽になると思う。そして生活のための仕事に生活を支配される矛盾した社会も少しは改善されると思う。

個人で今すぐ出来ること

とはいえ、社会全体の変化なんて難しい。僕がこうして個人のブログで何を書いたところで、世の中への影響力なんて皆無だ。誰かが変えてくれるのを待っていても、きっと自分の寿命が先に尽きる。

結局のところ、個人で今すぐ出来ることをやっていくのが現実的だ。生活のための仕事に生活が支配される矛盾に溢れた社会を変えることは無理だし、変わることを待つのも無理だけど、個人がその矛盾から離脱することならできる。じゃあそうしよう。

僕の場合は以下のようなことをしてこの矛盾から離脱している。

  1. 自分が納得感を持って日々を暮らすのに必要ないものにお金を使わない。
  2. 自分が使命感や誇りを持って取り組める活動をして、それで生活に必要な物事を自給したり、少なくてもいいからお金を稼ぐ。
  3. 余ったお金は投資に回す。

1は現段階でもうやり切ってる。月の生活費が8万円になっていて、さすがにこれ以上は下げられない。

2はまだまだ進化の余地がある。食べ物を少しでも自給してみたい。食べ物自給への第一歩を踏み出すのが2024年の目標。

3は淡々と新NISAに積み立てていく。それだけをやる。

という感じで個人ができることを僕はやっている。それで個人としては、生活のための仕事に生活が支配される矛盾からは離脱できているけど、社会全体が変わってくれたほうが僕も暮らしやすいので、自分にできる範囲での発信もしているし、続けていくつもり。

 

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