会社員を嫌々続けてたけど、自分の気持ちに沿って好きに生きることに決めて退職するまでの経緯

2023年8月現在、移住した札幌の地にて、毎日のんびりしながら生きている。

生活の中心にあるのは、書きたい文章を書き、作りたい動画を作ることだ。その発信により、現時点では月2万円ぐらいを細々と稼いでいる。でもそれだけだと当然ながら食っていけないので、会社員の頃に貯めた資産約1000万円を株式投資に回したり、ポイ活をしている。

それでも不足しそうな生活費の分はバイトもすることで、とりあえず今のところはギリギリ生計が成り立っている。

そんな、経済面においては不安定すぎるし、世間一般の価値基準と照らすと底辺な生活でもあるけれど、自分としては割と満足している。そして、自分が満足できればそれが自分にとっての正解だとも思っている。

 

こんな生活をしている僕だけど、これを書いている時点からほんの2年前、2021年の頃には、東京で真っ当に会社員をしていた。会社員として計約13年間ほど働いてきた。

色々と適正に問題を抱えており、転職したり休職したりしながらどうにか騙し騙しやってきたという感じではある。

でも、いい加減に何かを騙せなくなってきて、「俺の人生、このままだとこのままだよな。生き方を変えたほうがいいな」と強く思い、アレコレと考えたり行動した結果、会社を辞めて札幌でゆるく生きるようになっていた。

 

という人間なのだけど、具体的にどんな経緯と思考を経て今に至っているのかを、書いていくことにした。

ノウハウ的な、すぐに役立つようなものには一切ならないとは思う。

でも、現代日本社会に生きる1人の人間が実際に経験してきた経緯と思考をありのまま開陳していく。見栄を張らず、比喩的にパンツを脱いでいく。

なので、以前の僕と同じようなことを現在進行形で考えている現代日本人にとっては、何かしら参考になったりはするかもしれない。

 

 

新卒で就職(2009年4月)

大学生の頃を思い返すと、「大学を卒業したら会社に就職するもの」と何の疑問もなく思い込んでいた。だから就活して、就職した。

自分はどういう生活を望んでいるのかとか、どういう生活をしたら幸福と感じるのかとか、そういうことを考えた記憶が全くない。ただひたすら「就職するのが普通でしょ。それ以外の選択するのって変な人だけでしょ」みたいに思ってただけ。

いや、より正確に言うと、そう思ってすらいなかったかもしれない。無意識のレベルで漠然とそう思い込んでいただけ。自分の思考は皆無。思考停止。そんな奴だった。

 

就職して約11年働いて、もう嫌になりすぎて休職(2020年2月)

晴れて、思考停止したまま世間の空気に流されてなんとなく会社員となった。そして、辛かった。

週7日のうち5日間も朝から晩まで組織のルールに管理されながら指図されて働き、稼いだ利益は会社のものになる状態への不満を日々膨らませていき、疲弊もしていった。

今まで自分がいかに何も考えず世間の空気に流されていただけなのかも痛感した。なぜ、もっと自分の人生に対して自分の頭でちゃんと考えなかったんだろう。自分のことを、そうやって管理されるのが超苦手な奴だってわかってたはずなのに。

 

中学は途中からサボりまくって内申点がボロボロになり、まともな公立高校に進学すらできなかった。

高校は超ゆるい私立高校へ塾へ通う感覚でラフに通学してどうにか卒業。休みたくなったら担任の携帯に「今日は気分転換したいので休みます」と連絡を入れれば休めた。マジ。勉強さえしてれば全てが許される環境だった。

高校は私立で親に金を使わせてしまった分、大学は国立を目指し、無事入学出来て、よし頑張ろうと思った。でも、朝起きるのが無理で1年留年した。

そんな奴が会社勤めなんかできるかよ。無理に決まってる。

 

実際に会社で働いてみて、さすがに仕事なので朝は95%起きれた。起きれない5%では有休を使い、有休がなくなってからは欠勤すらした。

朝が苦手というよりも、毎日決まった時間に出社することに納得していない。だから、絶対に起きなければいけないモチベーションが湧かない。

今日は別に仕事しなくてもプロジェクトに支障はないし、二度寝したいし、天気も良いから散歩もしたい。よし、休もう。みたいなことを繰り返していた。

人から決められた時間に働くというだけで苦痛。そして人から決められた仕事をさせられるのも苦痛。

大企業からベンチャーまで経験したけど、個人的にはどこも似たようなものだと感じた。結局は組織に属して管理されるので、本質的に辛さは変わらない。

こういうことをいちいち考えてる奴は会社員には絶対に向いてない。黙って自分で事業でも起こしてろよって話だよな、わかる。

でも、自分で事業を起こすだけの気概も行動力もない。だからもう、惰性で会社員を続けていた。

 

ストレスが限界突破する→会社を辞める→無職になって数か月間リフレッシュする→いつまでも無職だと職歴に影響するし貯金が減って将来困るから再就職→ストレスが限界突破する→会社を辞める→以下同様

このループの3週目(つまり3社目)で、また会社を辞めようとしたのだけど、なんかもうバカみたいだなと思った。同じことばかり繰り返してて。

一体俺はいつまでこのクソみたいなループを続けるつもりなんだろうって。しかも、惰性でこのループを続けているうちに34歳にまで歳をとってしまった。今後さらに歳を重ねていくと転職しにくくなり、追い込まれていくのは目に見えている。

もういい加減、生き方を変えたほうがいいなと思った。これを書いてる時点から約3.5年前、2020年初頭の話。

そして、退職する旨を上司に伝えたところ、一旦休職してみることを提案された。

「え、休職ってしようとして選択できるものなんですか」と疑問に思ったけど、上司が休職でokというならできるんでしょうというところで、お言葉に甘えて休職してみた。

休職して、のんびりと今後の身の振り方を考えられるならそれがいい。辞めるよりもリスクが低い。

 

その後、上司からのススメで人生初のメンタルクリニックへ行ってみたところ、「適応障害」との診断を頂戴した。

「適応障害」とは、世間一般の基準と照らすと適応できそうな環境に、性格など個人的な要因により適応できず過大なストレスを継続的に受け続けることで、精神に影響をきたす疾患とのこと。

確かに、多くの人は何とも思ってなさそうな会社のアレコレに対して、僕だけ適応できてない感覚はあった。

いちいち「それは理に適ってない」「なんでこれやる必要があるんだ、目的はなんだ」とか考えちゃってストレスを感じていた。

とはいえ精神疾患と呼ぶほどのものには思えなかった。でもまあ、そうやって診断してくれるならそれでいいや、傷病手当金貰えるし。とも思い、診断結果をありがたく頂戴した。

 

休職中に、今後どうするか考えた

休職中は、毎日アニメを1クール分一気に見るニート生活を思いっきり楽しみつつ(適応障害じゃなかったよやっぱり)、今後どうしていこうかもちゃんと考えた。

当時の自分の頭の中には、大別して以下3つの選択肢があった。

  1. 割り切って会社員を続けて、金を貯めてから早期リタイアする
  2. 会社以外で一人前に稼げるようになって脱サラする
  3. どこか地方に移住して、隠居的に生きて生活費を下げながら、最低限だけバイトでもしながらのんびり生きる

上記は1から順に、当時の自分にとって「多分これがいい」と思える案だった。

「こうしたい」ではなく「現実的にこれかな」という意味。

 

1.会社員を続けて金を貯めて早期リタイア

ざっくりの目安として、50歳で4000万円ぐらいを漠然とイメージしていた。

50歳時点で4000万円あれば、独身であれば逃げ切れる計算をしていた記憶がある。

僕はミニマリストで生活費が少ないので、年間生活費を200万円とすると、4000万円あれば、その後1円も稼がなかったとしても、1000万円前後は資産を残した状態で65歳だか70歳に到達する。そしたら年金受給開始で人生ゲームクリア。

ただし、我慢しながら働きつつ、節約もして、年間200万円は貯蓄していく必要がある。

当時の貯金が35歳で約1000万円だったので、50歳で4000万円に到達するためには年間200万円増やすペースが必要な計算。

株式投資で増やせる可能性はあるけど、それは相場次第なので計算に入れずに考えていた。

机上で計算する限り、このプランが良さそうだけど……しんどいなあ。楽しくないなあ。

みたいな悶々とした気持ちも一方で抱いていた。

 

2.会社以外でちゃんと稼げるようになって脱サラ

現実的にやれるとしたら、ITエンジニアのフリーランス。

でも、その働き方も、自分に合ってるようにはあまり思えなかった。

当時は「フリーランスで自由に働こう!」みたいな風潮がネットの一部界隈で流行り始めていた頃だったはず。

僕はずっとIT関連の仕事をしており、プログラミングも一応は仕事で使える範疇での初級レベルは出来るはずだし(自分で書かなくなって長いので復習は必要)、仕様書や設計書も作れるはずだし、プロジェクト全体のマネジメントもそれなりに経験がある。

だからスキル的には多分IT業界でフリーランスでやれるとは思う。いや経験がないのでフリーランスを舐めてるかもしれないけど。舐めてたらごめんなさい。

 

確かに、フリーランスとして働けば、会社員よりは時間や場所や仕事内容に関して自由ではあるはずだ。会社員に向いていないと悟った自分にとっては、今より働きやすくなる可能性を秘めている。

でも、ITエンジニアのフリーランスって、会社員とは別の意味ですっごくキツそう。とも思える。

キラキラしてるイメージはあるけど、地に足をつけながらキラキラしたイメージを具現化していくと、弱い立場なので顧客から理不尽な要求を突き付けられたりしそう。というかするでしょ絶対。散々そういうの見てきたもん。

しっかりと評価を積み重ね、仕事を受注し続けていかねばならないプレッシャーもすごそう。

プロジェクト失敗した場合なんか、どうなっちゃうんだろう。個人で企業規模の案件の責任なんか取れないでしょ。

ITのプロジェクトなんて想定外の何かが起きてスケジュールが遅れたり、リリース後にバグってトラブル発生することが日常茶飯事なのに。

会社員であれば、自分はただ会社の一員としてやってるだけだから、何か問題が起きても会社として対応すればいいだけ。問題解決の対応をしたり謝ったり説明したりは必要だしそれは嫌な仕事だけど、個人としては守られている。

自分より上の責任者がいる体制であれば、顧客への説明みたいな嫌な仕事は全部押し付けられるし。

でもフリーランスだとそうはいかないだろうから、ヤバいことになりそう。考えるだけで怖い。フリーランスのITエンジニアは未経験だから憶測だけで言っている。

そういう、責任周りの制度がどうなってるのか全然知らないし、案件や顧客によって千差万別ではあるのだと思う。

 

トータルで考えたら、会社員よりはフリーランスのほうが自分に向いてるかもしれない。

でも、どっちもどっちというか……。正直に言ってしまうと、どちらも面倒くさい、どちらもやりたくない。

会社員として働きたくない。でもフリーランスとしても働きたくない。もはや、そうやって普通に働くのがしんどい。面倒くさい。疲れた。みたいなのが超正直な気持ちだった。

 

3.生活費を下げてゆるく稼いで隠居的に生きる

実は僕って、とにかくのんびり生きたいだけなんだ。という本心にはこの頃には気付いていた。退職から再就職までのブランク期間や、休職期間が本当に楽しかったから。

よく晴れた青空のもと、平日の昼間から散歩して、読書して、アニメ観て、ゲームする。そしてぐっすり眠る。たまに友達と遊ぶ。え、これでいいじゃん。この生活、最高なんですけど。完成されてるんですけど。

と思いつつも、無職期間が長くなることで再就職に不利になるのを避けたかったし、貯金は減るし、将来も不安だから、いつも数ヶ月程度でまた再就職していたわけだけど。

 

ただ、発想を転換してみてはどうだろうか。

生活費さえ下げてしまえば、そもそも稼がなければいけない額が減る。そして稼がなければいけない額が減れば、会社員とかフリーランスとかでちゃんと働かなくても、必要な分の金ぐらい稼げるのではないか。

自分がやりたいこと(ブログやYouTube発信など。書いたり喋るのが昔から好き)で小遣いレベルでもいいから稼ぎつつ、1000万円を株で運用もして、ポイ活もして、それでも不足する分は最低限だけバイトする。なるべく在宅で。バイトぐらい気楽な立場かつ低頻度なら働いてもいいと思える。

あれ?なんだか可能な気がする。じゃあそれでいいのではないか。

……でもなあ。さすがに振り切りすぎではないか。さすがに将来が不安になる。もっと堅実に真っ当に生きるべき。

という結論になった。

 

復職(2020年5月)

以上を考えた末に、案1「50歳で早期リタイア」を目指すことにした。それが現実的だと思えたからだ。

ということで、50歳でのリタイアに向けて、働いて金を貯める必要があるので復職した。休職期間は3ヶ月。ニート生活が名残惜しくてもっと休職していたかったけど、金を稼ぐことを優先した。

とはいえ、今までと同じように会社員を続けても、今までと同じループを繰り返すのは目に見えている。だから、スタンスを変えることにした。

もう、とにかく割り切っていく。仕事はあくまで金を稼ぐ手段なのだと自分に言い聞かせ、ムカつくことや理不尽なことは意識の表層でやり過ごし、どんなしんどい状況になっても「まあ、別にどうでもいいよ。淡々と求められてることを最低限だけやって金貰おう」のスタンスでやっていく。

僕は有休を使い果たして欠勤すらするクソなくせに、「この仕事は確かに意味あるよな。しっかりやろう」と自分の中で納得したら、120点を目指して全力を出す謎な人間だった。

多分、プレゼンする際は周囲の誰よりも周到に準備してたと思う。我ながら他の人より上手すぎたから。能力が高いというより、準備をしていた。

説明の順序、資料の分かりやすさ、喋ること(一言一句まで台本に書き、台本を見なくても自分の言葉としてスラスラ出てくるようになるまで練習してた)などにこだわっていた。

やる気がないから欠勤するのではなく、「今日は休んでも支障がない」という計画が自分の中にあるから欠勤していた。言い訳だけど。

でも復職後は、力を抜いて及第点の60点でやっていこう。台本なんて書くのやめた。粗い資料をその場で見ながらアドリブで喋ろう。120点を目指して全力を出したところで割に合わないし、ストレスが溜まる。もう疲れた。

そう決めて、復職した。

 

割り切りながら淡々とやるのは無理だった

でも、そんなスタンスは無理だった。そうやって割り切りながら仕事できるほど僕は優秀でも器用でもなかった。

復職してからしばらくは「すずひら君は病み上がりだから配慮してあげないとね」という配慮があり、だいぶゆるく働けてはいた。

某ウイルスの影響でリモートワーク化していたので、「え、家でこんなにぬるくやってるだけで金貰えちゃうのwちょろすぎww」みたいに調子に乗っていた。

家でアニメを観ながらメールに60点の返信をしたり、会議では「復帰しました、徐々に戻していきますねー」みたいな態度で、アイドリング状態で給料泥棒していた。

 

でも、そんなのはすぐ無理になった。理由は2つある。

第一に、以前のような仕事の内容と量に戻っていくにつれ、手を抜いて60点でこなそうとしたら40点になって事故るリスクが見えてしまい怖い。

第二に、性格的に、どうせやるからには本気でやりたくなる。本気でやると没頭できる。手抜きしてると「はあ、つまんねえなあ」というダウナーな気分になってくる。何してるんだろう俺、みたいな気分になってくる。

 

で結局、復職してから半年が経過した頃には、すっかり元のスタンスに戻っていた。

でも他にどうしようもないから惰性で仕事を続けていき、復職して1年弱が経過した頃。

2021年4月に、大きなシステム開発の案件で大きなトラブルが発生した。全国ニュースになりかねないレベルのトラブル。なってないけど。その前に鎮火した。

全くもって僕のせいではなくて取引先がやらかしたトラブルなのだけど、立場上、自分が矢面に立って対応していかないといけない。

僕が状況を整理して、今後の対応計画を作り、関係各所へそれらを説明し、計画実行の指揮を執り、言った通りに動けない取引先や社内メンバーにキレたりキレなかったりしている慌ただしい日々の中、母の余命が数ヶ月になった。

 

母のこと

唐突に母の話をした。ここからはしばらく母の話になる。

病気が判明

母は2018年2月に大腸癌のステージ4が判明した。最初に聞いたときは、その意味がわからなかった。大腸癌ってなんだ。ステージ4ってなんだ。わからないので、調べた。たくさん調べた。

結果、5年生存率が20%とか、そんな情報ばかり。

判明してから1週間ぐらいは、普通に電車に乗ってるだけでも涙が出てきてしまったりして、自分でもビックリした。「え、俺ってこんな簡単に泣けるのw」みたいな感じで。

こんなに心を揺さぶられるものなのかって、本当に驚いた。まだ死別したわけでもないのに。今からこんな状態だったら、死別したらどうなっちゃうんだよ俺は。と不安になったりもしたけれど、時間が経つにつれてだいぶ落ち着いた。

 

一緒に過ごした日々

癌だと分かってからも、母はしばらくは元気だった(今思い返すと、辛かったんだと思う。あんなに明るくいつも通り振舞ってたのがすごい)。だからその間に、何度も一緒に旅行をした。

家族と旅行に行くなんて、中学生の頃を最後に多分していなかったけど、病気が判明してからは、3年間で10回ぐらいは家族と旅行をした。母と二人で近場を観光して一泊したことも何度かある。

横浜のバーで二人で過ごしたりもした。母はノンアルコールのシャンパンで、僕は普通のシャンパン。乾杯して、雑談した。何を話したかは全然覚えていないけれど、心地良い時間だったことはよく覚えている。

写真も撮ったけど、死別してから2年が経過した今でも写真は見られない。涙が止まらなくなってしまう。こうして書いてるだけでも涙が出てくる。

 

容体が悪化する中、仕事に忙殺

そんな感じで、しばらくはあちこち遊びに出掛けていたものの、2021年4月頃から痛みが激しくなり、家で寝たきりになってしまった。観光どころか近所を散歩することすら無理。車いすに乗せて何度か外には行った。

その頃には「あと数ヶ月かもしれない」と漠然とわかっていた。だから、とにかく実家に帰るべきだった。帰りたかった。

でもタイミングが悪いことに、上述した仕事の大きなトラブルが重なってしまった。

 

2021年4月頭にトラブル発生、対応に忙殺されてストレスマックス状態へ。深夜2時まで仕事して、寝て起きて、朝9時から仕事してた。

その2週間後に母の容体が悪化して病院へ運ばれ緊急入院。からの、家で寝たきり。

 

仕事でイライラしまくっていたし、疲れていた。

だから「あと数ヶ月かもしれない」と薄々分かっていたにもかかわらず、休日に片道2時間掛けて帰省するのを面倒に感じ、4月、5月、6月は月1回か2回か、詳細は覚えてないけど、低頻度でしか帰省しなかった。

4,5,6月の計約90日間のうち、実家にいたのが合計10日間ぐらいだったはず。帰省して何泊かすることを数回した。

まあ働きながらそれだけ帰省したら十分でしょって思える気持ちもある……いや、でもやっぱり、もっと帰るべきだった。だって、もう今は母に会えないからね。二度と会えない。だから会えるうちにもっと会うべきだった。

 

トラブル対応が長引いていた。深夜2時まで仕事してたのは4月だけで、5月6月は残業40時間とかその程度ではあったものの、大きな問題に付随した数々の諸問題への対応とか、今後の再発防止とか、そういうウンザリすることばかりしており、精神的に疲れていた。

5月は母の誕生日。おそらく最後の誕生日であるにも関わらず、お祝いに意識を集中できなかった。どうしても仕事のことが頭にあるし、疲れてるし、また休み明けに問題対応するのかと思うとため息をつきたくなる。

でも心配させたくないから、空元気を出してた記憶。最後の誕生日だったのに。

 

この世を去る

そんな生活をしているうちに、あっという間に時間が流れ、2021年7月。

母の容体が一段と悪化して、家で素人の父が看病するのも無理な段階へと至り、緊急でホスピスへと入居した。

この頃にはようやく仕事もひと段落ついたので、ホスピスへ駆けつけて、医師から説明を受けたところ、あと2週間ぐらい、とのことだった。

 

それからは、ホスピスの近くのビジネスホテルに連泊して、毎日ホスピスを訪れて、なるべく長い時間を母と過ごした。

仕事はひと段落ついたとはいえ、通常運転の業務は普通にあるので、朝からビジホで会議して、終わったらホスピスへ行き母と最期の交流をしつつ、合間にホスピス内でPCで仕事して、会議の時間が近づいてきたらまたビジホに戻って会議して、終わったらまたホスピスへ。

 

そんな日々を送っていたらあっという間に2週間ほど経過して。

母はこの世を去った。

7月末。横浜の真夏日。

 

強い痛みを訴えていた時もあったけど、最後は落ち着いていた。

「今、呼吸の間隔がいつもより長かったな」という状態が2回続いたのち、3回目で、次の呼吸が来なかった。

左手は母のおでこに乗せていた。右手は母の左手を握っていた。母の顔まで10cmの至近距離で、一部始終を見つめていた。

手を通してほんの数秒前までは感じていた命の温もりが消えていき、あっという間に冷たくなっていった。一切動かなくなった。

自分の命よりも大切に思えた母が、この世からいなくなった。そのことを、五感で理解した。

 

人生に対する考え方が自然に変わった(2021年8月)

それまでの36年間の人生の中で、最も泣いた1週間を過ごしたと思う。多分だけど、生まれたての赤ちゃんだった時より泣いた。

息を引き取ってからほんの1時間ほどでホスピスから葬儀場へ運ばれていった。その車を見送り、ホスピスの職員にお礼を言って、ビジホに帰り、ベッドに顔をうずめて叫びながら泣き続けた。

まだあと何日分かホテルを押さえていたけど、そのホテルにいたくなくて翌日にチェックアウトした。無性に自分の家に帰りたくなった。

何週間かぶりの我が家に帰宅して、忌引き休暇で仕事を休み、ぼんやりしながら日々を過ごすうちに、あっという間に葬儀の日。手続きなどは全て父が行い、僕は何も手伝ってない。できる心境ではなかった。

そして葬儀も終わり、さあ日常に戻りましょう。仕事に復帰して、また以前のようにやっていこう。50歳までに4000万円貯めていこう。

 

なんてことを、一切する気が起きなかった。

「色々と配慮ありがとうございます、無事に終わりました。またお仕事していきますね」みたいな態度を偽装しつつ、心の中では全く別のことを考えていた。

「もう会社なんて辞めよう。今後の人生は、自分の気持ちに沿って好きに生きよう」と決めていた。

悲しみに暮れてヤケになった、とかではない。多分。

悲しみに暮れながらも、経験したことを咀嚼しながら考えていったところ、人生に対する考え方がガラリと変わってしまった。

 

人生は有限であり、いつ終わるかわからないことを理解した

母の死の瞬間を目の前で体験したことで、「人間はいつか必ず死ぬ。死んだらいなくなる。いつ死ぬかはわからない」ことを理解した。

そんなことは元から理解していたけど、骨の髄に入り込むほどの深さで理解した。

今、母は存在しない。その現実に生きている。LINEを送っても何も返ってこない。以前は可愛いスタンプをすぐに返してくれたのに。もうこの世に存在しないのだ。

人生は有限で、死んだらいなくなる。そしていつ死ぬかはわからない。その理解を前提に置いて考えると、「50歳までに4000万円貯めて早期リタイア」のプランがバカバカしくなった。

50歳まで生きる保証はないし、生きたとして労働のストレスが原因で病気になってるかもしれないし、健康に生きてたとしても、今目の前にある日々よりも50歳以降の日々を優先する理由がない。

一見すると堅実に将来に備えている合理的判断に思えて、実はすごく非合理的だなと思うようになった。以前の自分とは考え方が大きく変わってしまった。

確かに将来は不安だ。でも将来のことは、将来の僕がその時の健康状態や価値観や趣味や社会環境を踏まえながら最大限に楽しもうとしてくれればいい。

未知な将来への備えをするために、なぜ今の僕が毎日ストレスを溜めなきゃいけないんだ。意味がわからない。理不尽だ。今の僕には今を楽しませてくれよ。

 

他人の事業に労働力を提供するよりも大切なことが人生にはある

母が家で寝たきりになり、多分あと数ヶ月の命だと察していたにも関わらず、2021年4,5,6月は、母との時間に集中できず、頭の中には仕事のことばかりあった。

ホスピスに入居してからも、もっと母のすぐ隣にいればよかった。度々ビジネスホテルに戻ったり、ホスピスにいても隣のスペースのベンチでPC作業してたりするのではなく。

なんで、俺を生んだ最愛の母との残り少ない時間を過ごすことに集中してないんだよ。なんで、よりによって他人の事業に労働力を提供することなんぞに意識を持ってかれてるんだよ。バカすぎるだろ。

「母との最期の時間」と「他人の事業への労働力提供」のどちらが大切かというと、比べるまでもない。1000兆 : 0.1で前者が大切。なのに0.1のほうに意識を持ってかれていた。こんなの、生き方を間違えている。

 

母との死別後、以上のような内省を頭の中で繰り広げていた。

その上での結論が、「もう会社なんて辞めよう。今後の人生は、自分の気持ちに沿って好きに生きよう」だ。

 

そして現在(2023年8月)

約1万文字も書いてきた。ここまで読んだ人はすごい。

以上のような経緯を経て、僕は今、会社を辞めて、移住した札幌の地で、自分の気持ちに素直に従って毎日のんびり生きている。

前々から札幌には一度住んでみたいと思っていた。綺麗だし、便利だし、家賃が安いし、気候の違いが日本の中では大きいからどんな感じなのか体験もしてみたい。だから移住した。

冒頭に書いたように、生活の中心にあるのは、書きたい文章を書き、作りたい動画を作ることだ。その一環として自分の体験を世界に共有していこうと思っており、この文章もその一部だ。

稼ぐことだけを考えると、自分の実体験を綴るよりも、「サラリーマンして最速で1000万円貯める方法」みたいなことでも書いたほうがコスパが高い。楽だし。ChatGPTに教えてもらって回答をコピペして少し手直しして終わり。

でも、そういう発信には全然気持ちが向かない。だからやらない。

拙いとしても自分ならではの何かを淡々と発信していき、世界を多様にすることの0.00000001%にでも貢献するほうが意義を感じる。だからそうする。

とにかく、自分がやりたいと思うことをやる。そういう考え方で今を生きることにしている。

おわり。

 

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