「世間」という言葉と、「社会」という言葉がある。
この2つの言葉は似たような意味を持っており、多くの人はいちいち使い分けなんか意識していないと思う。僕も日常的にはいちいち意識していない。
でも意識していなくても、実は無意識化でこの2つの言葉は使い分けられている。
その証拠として、「社会貢献」とは言うけど「世間貢献」とは言わない。「高齢化社会」とは言うけど「高齢化世間」とも言わない。
反対に、「世間体」とは言うけど「社会体」とは言わない。「世間話」とは言うけど「社会話」とは言わない。
「そんなことをしたら、世間からバッシングを受けるぞ」とは言うけど、「そんなことをしたら、社会からバッシングを受けるぞ」とは言わない……これは言うかも。わからなくなってきたけど、まあよし。
とにかく、いちいち意識はしていなくても、無意識化のレベルで多くの人は社会と世間を区別している。
では何を基準に区別しているのかというと、これはもうすごく感覚的なものであり言語化が難しいのだけど、以下のような特徴を備えている集団に対して、僕たちは無意識に「社会」ではなく「世間」を使っているように思う。
- ルールよりも空気に従うことが大事
- 自己主張よりも空気に従うことが大事
要約すると、「とにかく空気が大事」。
集団の大きさは関係ない。なんとなくの空気が言動を支配している領域が世間。
小さな世間でいうと、家族や数人の仲良しグループ。中ぐらいな世間だと地域、会社など何かしらの組織。大きな世間だと日本人。
上記特徴を備えた集団を、僕たちは無意識に「世間」と呼んでいる。そんな気がする。
たとえば僕のようなほぼ無職のアラフォー独身男性は、世の空気と合わない存在だし、空気の物差しで測ると底辺なので世間体が悪い。
「ちょっと、聞いた?〇〇さん、脱サラしてニートになるんですってwバカよねえww」みたいな、一緒になって他人を笑う話が世間の中ではよく行われる。
まあ僕も、脱サラしてニートを目指すと言ってる人がいたとしたら別の意味でバカだと思うけど、それは置いといて。
ふざけたせいで例が悪いけど、とにかく、空気と違うことをしている人をバカにする話が世間の中ではよく行われる。
その理由は単純で、空気に従い、周囲と合わせることこそが世間だからだ。
周囲と違うことをしている人を発見→空気を読めてないと思う→自分たちは空気を読めてる側の人間だと安心したいので「あの人は読めてないよね。ダメだよね。その感覚で合ってるよね」と確認しあう→仲間意識も強まりニッコリ
自分たちは内側の人間だという安心を得て、仲間意識も育むための手段として、外の人間に対して排他的かつ攻撃的になるのも世間の特徴だと思っている。
余談。
社会は英語で「society」だけど、世間を表現できる英語はないらしい。
googleで世間を英訳したら「world」になった。世界になってしまい、世間のニュアンスが消えた。
英語圏には世間がない、あるいは日本と比べて濃度が薄いのだと思われる。
そういえば何かの本で、以下を読んだ。
- 一神教国家の場合、各自が神との1vs1の対話によって個を保つ
- 日本の場合、1vs1で対話できる神がいないので、「自分はどこに属しているのか」が重要な要素となり、個が集団の中に溶け込んでいく
個が集団の中に溶け込んだ結果、自己主張するのではなく空気を読んで集団を乱さないことが重要になっていく。
というのが、僕が思う「世間」。
一方で「社会」は、辞書に書いてあるような意味以外に特に自分の考えはない。
辞書というかwikipediaだけど、以下と書いてあった。
社会(しゃかい、英: Society)は、ある共通項によってくくられ、他から区別される人々の集まり
社会のうち、書いてきたような特徴を有しているものを世間とも呼ぶ。という考え。
僕は以上のような「世間観」を持っており、そんな世間が嫌いだし、全然馴染めない。どう考えても非合理的な空気に合わせることが苦痛で苦痛で仕方がない。
率直に書いてしまうけど、思考停止している人ばかりだとも思っている。自己主張せず空気に合わせることばかりしている影響で、自分の頭で考えることを忘れていくんだろう。単なる気分の問題だけど、思考停止してると自分には見える人々が多数派の集団に属しているのがしんどい。
もちろん、他人の頭の中なんてわからない。思考停止しているのではなく、成熟した大人として、割り切りながら場に合わせている感覚なのかもしれない。そういう人も一定数はいるだろう。
でも僕には、そういう割り切りが成熟している態度とは全く思えない。自らの考えを放棄して周囲に合わせていくことは危険だとすら思っている。
人間って、空気に支配されて過ちばかりを繰り返している。
戦争賛成の空気に乗って戦争賛成の大合唱、反対する奴は非国民、鬼畜英米討つべしで戦争開始。別に旧日本軍が暴走して勝手に戦争を始めたわけではない。
某新型ウイルスはとにかく恐ろしい。何よりも優先して対策をしなければならない。何の症状も出てない人でも真夏の屋外でマスクを付けるべき。付けてない奴は非国民。あと、この新型ワクチンはまだ通常の治験は全てパスしてないけど、とにかくバンバン打つべき。打たない奴は非国民。
などなど。一応フォローすると、僕は別にいわゆる「反ワク」ではない。某新型ワクチンに対してのみ、具体的根拠をもって、リスクがリターンに見合っていないと個人的判断をしているだけ。
完全に余談だけど、もう1年以上は前、反ワクのレッテル貼りをしながら某新型ワクチンは安全と主張しているツイートがバズっており読んでみたら、不活化ワクチンの仕組みを説明して「ワクチンというのは、仕組みが明快で歴史的にも安全だと証明されているんです。反ワクは陰謀に騙されたバカです。打ちましょう」的な内容で、賛同者多数、反ワクはバカな陰謀論者の大合唱だった。
やっぱりなと思った。そもそも今回のものは仕組みが全く異なることすら知らない。自分で調べたり考えたりせず、空気に乗ってるだけだから。
あの某新型ワクチンの安全性を論点に書いているのではない。「せめて、仕組みが従来と異なる新型であって、どんな研究結果がこれまで出ているのかぐらい理解してから打ちませんか」ということを書いている。
「国が推進してるのだから大丈夫。みんなが打つなら大丈夫。逆に打たない人がおかしい。バカ」←これがまさに世間。
とにかく何が言いたいかというと、自分で考えず周りに合わせていくことは命の危険すらあり、決して成熟した大人の処世術ではないということ。
結果的に某新型ワクチンはちゃんと安全であったことを僕は願ってる。
中学二年生頃から世間に対してそういう感覚を抱き始めたので厨二病かと思いきや、アラフォーに至る現時点でも世間嫌いなまま。むしろ生きる年数が増すほどウンザリする世間と遭遇し、世間嫌いが加速している。
それが一因で会社という名の世間にも適応できなくて、退職したり再就職したりしつつ10年以上もどうにか続けてきたものの、結局もう、その働き方から降りた。
適応できないことを認めたし、有限な人生において適応できないことをやっているのがもったいなすぎると悟った。
お腹がすいてきたので以上にする。
僕なりの世間という概念への理解を土台にして、世間が嫌いであり、適応もできず、適応できずにしんどい思いをしてる間にどんどん歳を取り人生の残り時間も減っていくから適応を試みるのをやめて開き直った。
という話でした。おわり。
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