休み明けに学校・会社へ行きたくないのは当たり前。行きたくないなら行かなければいい。

もう2023年も9月になってしまった。時間が経つのが早すぎる。

このままどんどん時が過ぎ、大晦日になり年が明け、「よし、2024年こそ頑張るぞ」と意気込んだかと思いきやまた9月になって、「もう2024年も9月になってしまった」とか言ってるんだろうな。

僕の生き方の問題ではなく、ただシンプルに時間が経つのが早すぎるのが問題。

 

9月といえば、学生は1か月以上の夏休みが終わり新学期が始まる時期だ。

長期休暇の後の学校って本当にしんどいんだよな。わかる。知ってる。20年以上前に僕も通ってきた道だから。

長期休暇明けどころか、土日明けですら毎週「はあ、また明日から学校へ行かなきゃいけないのかよ…」とうんざりしていた。

8月31日にはX(旧Twitter)にて、「学校を行きたくないあなたへ」的などこかのメディア記事がおすすめに表示されたりもした。

超斜め読みしたところ、一言で要約すると「無理はせずSOSを出しましょう」みたいな内容だったと理解した。

無理はせずSOSを出しましょうというのはその通りだと思うし、そうすべきだと思う。

でも当人の心理としては、学校に行きたくないと思ってしまう自分に対して罪悪感があったり、親や周囲への申し訳なさもあり、なかなか言い出せないんだよな。

 

学校に限らず会社も同様。僕なんて日曜夜に毎週「また明日から会社かよ、行きたくねー」と思っていた。

会社は1か月の長期休暇なんてなかったけど、1週間の休みならあった。そういうときは連休最後の2日あたりから「やばい、休みが終わろうとしている。やばい。どうしよう」という焦燥感に駆られていた。

学生時代は毎週「また明日から学校か…」とうんざりしていて、学校を卒業したかと思ったら今度はサラリーマンになって「また明日から会社か…」とうんざりする。

一体いつまでこんなの続けるの。毎週こんな心境になる生活なんて、いい加減やってられるかよ。やってられん。人生はもっと自由だ。ということで会社は辞めた。

 

会社を辞めてから1年9か月目現在、本当に思う。休み明けに学校や会社に行きたくないのなんて、超当たり前だよな、と。何も恥ずべきことではない。

だって、学校や会社って、つまり「決められた時間に決められた場所へ行き、決められたルールと決められた人間関係の中で決められたことをする」場所でしょ。

そんなの、嫌に決まっている。どんだけ束縛してくるんだよって話だ。

しかもその超束縛が週7日のうち5日も連続する。ありえない。

休日は、時間も場所も人間関係もやることも、自分の自由に決めながら過ごせる。そんな日々から一転して今度は超束縛。束縛度合いが大きすぎるし、休日からの振れ幅も大きすぎる。

そんなの、嫌になって当然だ。何もかもを他人から決められる環境なんか、息苦しくて仕方がない。本来世の中はもっと自由であるはずだ。

 

自由からの逃走』という本がある。

エーリッヒ・フロムという、ドイツの心理学者が1941年に書いた本。

まさにドイツが戦争している真っ最中。しかもフロムはユダヤ系。アメリカへ亡命して難を逃れた状態で書かれたものらしい。

そういう時代背景や著者個人の背景も頭に入れながら読むと、とても考えさせられるものがある。

かなり難解な本だけど、たまに再読したくなり、1行ずつ理解していくような遅いペースで複数回読んでいる。

この本の内容を要約すると、

  • 現在に至り、人間はついに自由を獲得した
  • しかし、自由を謳歌するには自主性が求められ、孤独と不安もつきまとう
  • 自主性、孤独、不安を避けるために、大衆は獲得した自由から自ら逃走していく

 

ナチスに傾倒してユダヤ人を迫害していた当時のドイツ社会なんてまさに、せっかく自由を獲得したのに自ら自由を手放した典型例だ。

長い歴史を経てようやく民主制を導入して民意を政治に反映させられるようにしたのに、「独裁政党に全権を与える」という民意を示してしまったんだから。

「何もかも指示してください。私たちは言うことを聞いて付いていきます」ということ。まさに自由からの逃走。

 

なぜ唐突に『自由からの逃走』の話をしたかというと、学校も会社も、自由から逃走する生き方だと僕は思っているからだ。

より正確に言うと、学校が「自由から逃走する訓練」で、会社が「自由から逃走する本番」。

ナチスの例の後にこんなことを言うと、学校へ通ったり会社へ勤めることはナチスに加担するに等しい、なんて暴論に聞こえかねないので、そんなことは言っていないと明記しておく。

僕は別に、自由から逃走することは悪いことだとは思っていない。

自由から逃走したい心理が悪い方向へ作用するとナチスみたいな惨状になりかねないものの、それはあくまで結果の1つにすぎない。

自由から逃走する大衆心理に対して、フロムは「堕落した人間である」ぐらいの温度感で痛烈に批判している面もあるけれど、それはまあ、当時の背景を踏まえたらそのぐらい言いたくもなるでしょう。独裁者の言うままに、母国で自分と同じユダヤ系の人々が虐殺されてるわけだから。

一方で、僕は別に自由から逃走する心理を堕落だとは思っていない。そもそも自分含め人間に対する評価が低いからだと思う。人間なんて、中途半端に知能が発達しただけのチンパンジーに似た哺乳類だと思っている。自分含めて。

だから自主性なんて言われても、そんな高度な概念には対応できない個体が多いのは当然だし、孤独や不安を避けるために自由を放棄してでも群れに属したくなるのも当然ぐらいに認識している。

ただ一方で、やっぱりチンパンジーと比べたらそれなりに知能が発達してしまっている影響で、「土日は自由、平日は不自由」な状態を認知できてしまい、結果として「また明日から学校・会社かよ……行きたくねー」となる。

 

本当に中途半端なんだよ人間の知能は。自由なんていらないのか、それともいるのか、ハッキリするべき。

自主性を発揮する困難を避け、孤独と不安のリスクも避けて自由から逃走する一方で、自由を欲している自分を認知できてしまい、苦しむ。

チンパンジーみたいに自由の概念なんてそもそも持たないか、ちゃんと発達して自由を謳歌できるようになるか。どちらかハッキリさせるべきだった。中途半端に脳を発達させたのが悪い。

 

お腹がすいてきたので、そろそろ終わる。

整理すると、

  • 休み明けに学校や会社に行きたくないのは中途半端に脳が発達した人間心理そのものだから、罪悪感を抱く必要はないし、恥ずかしいものでもない。
  • 実は自由なんて既に獲得済みで、自ら逃走しているだけ。自主性を発揮する難しさを受け入れ、孤独や不安に陥るリスクも受け入れて自由に回帰するか、自由から逃走し続けるか。どちらを選ぶかは、それこそ自由。

ということ。

 

全ては自分次第。学校にも会社にも、行きたくないなら行かなければいい。その代償として、自主性を発揮する難しさに直面し、孤独や不安に陥るリスクは高まるが。

僕は中学は後半からは週3.5日ぐらいしか通わず、修学旅行や運動会や文化祭は全て参加しなかった。高校も普通のところには通ってない。大学は留年した。

そうやって自由から逃走する訓練を疎かにした結果、自由から逃走し続けるのが辛くなり会社を辞めてしまった。

そして今は、自主性の発揮に悪戦苦闘し、孤独に陥り辛い体験もしながら、それでもやっぱり、僕は自由でありたいと思っている。

僕は自由を獲得したのではなく、自由から逃走するのをやめただけ。

これを読んだ「学校・会社に行きたくない人」がどうするかは、あなたの自由。

自由を選んだとして、もちろん僕は責任を取らない。自分で責任を負うことも自由の代償。

 

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