「労働は美徳」は刷り込みに過ぎない。労働を辞めることに引け目を感じる必要はない。

「労働は美徳」という価値観を擦り込まれていることで、苦しい会社員労働から抜け出すことに引け目を感じている人が世の中に多い気がする。

自分の発信に対する反応や、いただく質問を読んでいてそう感じる。

本人が自分の頭で考えた上で「労働は美徳」と納得しているのならともかく、何となくの社会の空気でそう思い込んでるだけなら、もったいないことだと思う。

別に他人のことは他人の自由なので口出しすることでもない。

でも「なんでたかが会社員労働を辞めることにそんなに引け目を感じるの?」と不思議な気持ちになったりはする。

会社員労働が自分を不幸にしてるのなら、それを辞めることに引け目を感じる理由なんて1ミリもないと思う。

そういう僕の考え方を書いていく。

 

「労働は美徳」は資本主義社会における刷り込みだと思ってる

僕は「労働は美徳」なんて価値観は、資本主義社会における資本家(投資家)と経営者が金儲けするために流布したものだと思っている。

この価値観が広まった経緯を事実をもとに把握した上での結論、とかでは全然ない。

単なる、今の社会の状況を踏まえての邪推でしかない。でも自分にはそう思えるので、それでいいやって思ってる。

 

そう思う理由

「労働は美徳」と庶民に思わせておけば、投資家や経営者は自分たちが金を稼ぐために豊富な労働力を安く使えるし、同じ土俵に立つライバルも増えにくい。

よって資本主義社会という「金を多く持ってる人間が勝ち」な社会で上位に立ち、良い暮らしをできる。

加えて民主主義なので、金の力で情報を操り、それを通して他人を操ることで政治的な権力まで握れる。

資本主義+民主主義な社会では、金を多く持って経済を支配した人間が、金の力で政治も支配できる。

実際にそうなっている。別に陰謀論でもなんでもなくて、仕組みを踏まえれば当然な状況だ。

 

一方で労働者側からしたら、自分の一度きりの人生の時間の多くを「他人から束縛され、指図されながら労働し、それによって時間を金に換えていく」となる。

果たしてその生き方が幸福なのかというと、おおいに疑問がある。

一概に「その生き方は不幸である」とは言わない。労働内容、労働環境、その人のライフスタイル、家族構成、性格、社会環境などによるだろうから。

でも2023年現在の日本社会における労働者を見ると、生き生きと暮らしてる労働者よりも、暗い顔をしたり病んだり虚無を感じたりしながら悶々と暮らしてる労働者のほうが多い印象がある。

個人的には賃金労働なんてやりたくない。僕は性格の面で、人の管理下に置かれてアレコレ指図されながら時間を金に換える行為に苦痛を感じるからだ。

生活に必要な金を稼ぐ手段として労働が必要になる状況はどうしてもあるけど、必要最低限の時間に留めておきたい。

 

「労働は美徳」によって、投資家や経営者は資本主義+民主主義な社会において金の力で権力を手に入れる。

一方で労働者は、庶民的生活をどうにか成り立たせる賃金を得るために暗い顔をしながらたくさん働くはめになる。

こういう状況を観察していると、「労働は美徳なんて、力を持ってる投資家や経営者(特に投資家)が、力を使って広めただけなのでは」と邪推したくもなる。

労働者も概して幸せになれるのなら、Win-Winなので「労働は美徳だね!」で僕も同意できるのだけど。

明らかに「Win-Lose」で、しかもWin側が圧倒的な権力を持ってるわけだから。

じゃあ、Win側が広めた価値観だよなって思うのが普通だ。

 

労働の必要性が減っているのに金儲けのために無理やり労働してる社会

2023年現在の日本なんて、特に労働が苦痛な社会になってるとも思ってる。

まだまだ社会に不足が多い時代であれば、労働することによって社会の不足が解消されていき、労働者自身の生活も豊かに便利になっていく。

そういう経路によって、労働が労働者の幸福に寄与してくれる効果もけっこうあっただろう。

でも、2023年現在の日本では、衣食住は庶民でも完全に満たされていて、どこで誰と何をしても法の範囲内で自由。

人間が人間らしい生活の中で幸福に生きていくのに必要な環境はもう概ね出来ている。

あとはこれらの維持をしつつ、持続性を高めたり、細かな改良をしたり、発展の影で犠牲になってきた部分への対応をしつつ、一部の秀才たちにはより良い技術の研究もしてもらう程度で十分だろう。

疲弊して、暗い顔をして、病んでまで労働しても、労働者の幸福度が上がるような社会の発展なんてもはやない。

だったらもう労働量を減らして生活スタイルを変更すればいいのだけど、それができない。

投資家や経営者が権力を持ち続けるためには、資本主義と民主主義な社会の中で自分たちだけが莫大な金を持ち続ける必要がある。

だから「労働は美徳」な価値観を活用して労働者を引き続き労働に縛り付けておき、強引にでも社会に物やサービスをねじ込んでいくことになる。

 

別にあってもなくても労働者の幸福には影響しない物やサービスを作るために、労働者たちは週5日間も朝から晩まで労働して疲弊して、時には病んで、幸福度を下げていく。

必要以上のご馳走を作るために科学の力で食物や家畜を強引に大量生産して大地が枯れていくし、農薬も大量に使われるし、遺伝子も組み替えられる。

食が不自然になり、昔はほとんど存在しなかった成人病や癌が増えていく。アレルギーも増えていく。

危険ドラッグなのにいつでもどこでも買える酒に依存して、人生を台無しにする人も大量にいる。こんな危険ドラッグを金儲けのためにいつでもどこでも手軽に買えるようにしてる社会は常識的に考えておかしいと僕は思ってる。

科学的に人の脳をハックして物欲や不足感を刺激して、本来は必要ではなかったものを買わせたり。もはやマッチポンプビジネスだ。

その際、注意力をあちらこちらから科学的に引き付けられていくにつれ、注意力が散漫になり、受動的になり、能動的に行動して達成感を得ていく能力も落ちていく。

などなど。

書いていくとキリがないけど、現代は人間の幸福度に寄与しないどころかマイナスな影響まである物やサービスに溢れている。

それらを作ってでも金儲けしたい権力者と、権力者に使われ続ける労働者。

幸福に生きられるための社会発展に寄与しない労働をして「この仕事には果たして意味があるのだろうか」と悶々としながら疲弊して不幸になり、存在しないほうがマシな物やサービスが社会に増えることでまた不幸になる。

 

「労働は美徳」は、目的と手段を取り違えている

この状況は、庶民目線からしたら、目的と手段を取り違えて、手段を目的化することで本来の目的を損なっているように見える。

本来の目的は「一度きりの人生を、たとえ庶民であっても自分なりに幸福に生きられる社会を作ること」だと僕は思っている。

で、そのための手段として、資本主義社会における「労働」が、功罪の両面はありつつも機能するケースもある。

とはいえ、あくまでも労働は手段であって、目的ではない。

ところが「労働は美徳」と言ってしまうと、労働することそれ自体が目的になってしまう。

だから、労働によって不幸になったとしても、辞めることができない。

自分が会社員労働で不幸になってるという自覚があっても、その労働を辞めることに引け目を感じてしまう。

たとえ人間の幸福度にマイナスな影響を及ぼすような物やサービスを作る労働であっても、それをやることは人として正しい姿である、美徳である、となってしまう。

 

おわり

念のため最後に書くけど、もちろん僕は労働そのものを否定しているわけでは全然ない。

書いてきたように労働によって社会が便利になり、それによって労働者(僕含む)の幸福度が上がってきた面もあるわけだから。

今も毎日誰かの何かの労働によって生活を支えていただいている。感謝してます、ありがとうございます。

 

労働それ自体の否定ではなくて、僕が言いたいのは、

  • 「労働は美徳」は資本主義社会の権力者に都合がいいから広まってるにすぎない(邪推だけど、理に適ってると思ってる)
  • 本来、目的は「幸福に生きられる社会を作ること」であるはず。労働はそのための手段であるはず。
  • 「労働は美徳」というと、目的と手段を取り違える。
  • 強者に都合の良いだけで労働者側には都合の悪い価値観なんて真に受ける必要なし。労働が自分を不幸にしてると判断したのなら、その労働を辞めることに引け目を感じる必要も全くない。

ということだ。

 

僕はこういう考えを持っているから、自分を不幸にしていると判断した会社員労働を辞めて、労働は手段として必要最低限に抑えている自分の生活に引け目を感じることもない。

自分なりにこの社会の中で納得感を持ちながら幸福にやっていきたいと思っているだけだ。

庶民目線から見たら目的と手段を取り違えており、強者の都合ばかりが良い社会はクソだと思っているから、そういう社会を変えたい気持ちもある。

でも個人で出来ることなんてたかが知れてるから、とりあえず僕個人として「労働は美徳」を完全無視した生活に移行した。

そしてのんびりした生活の中で自分の考えをこうして書いてみた。

以上。

 

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