死は受け入れがたいけど、死を受け入れないと今を生きられない

死に対する受け入れがたい理不尽な感覚

僕はいつか必ず死ぬ。そして死んだらもう終わり。肉体的な活動の終了はもちろん、精神的な活動も終了してしまう。つまり、死んだらもう何も考えられなくなる。「自分」を知覚することもできないし、「他者」を大切に想うこともできないし、「世界」についてアレコレ考えることもできない。

正直言って、怖い。死にたくない。肉体的活動の終了よりも、精神的活動の終了のほうが怖い。想像ができないからだ。生き物として死に、肉体が動かなくなるのは想像できるのだけど、今こうして当たり前に「自分」を知覚しながらあーだこーだ死について考えたりしてるような精神が途絶える状態というのは、想像ができない。

亡くなって肉体的に動かなくなった人を見たことはあるものの、その人の精神がどうなったのかまでは見たことがない。一体、亡くなった母の精神はどうなったのだろう。無条件に僕を愛してくれていたあの精神は、今どこにあるのだろう。

まあ、どうなったも何も、精神なるものも脳や心臓などの肉体的活動の結果として生じる機能の一部に過ぎないのだろうから、肉体的活動の終了に伴い精神なるものも消えて終了したのだろうけど。そんなことは分かってるのだけど。分かってるけど、やっぱり、精神が途絶える状態を想像できない。

自分が今こうして知覚している精神っぽい何かによる活動って、生命維持に必要な範疇の活動ではなく、むしろ生命維持にはマイナスな影響を及ぼしてるとすら思える。余計な事ばかり考えては思い悩むのだから。生命維持の目的だけに照らしたらむしろマイナスな精神的活動の結果、自死を選んでしまう人が世の中には多いのだろうし。

つまり、人間の精神って、科学的な話は置いといて、感覚的なものとしては、生命維持のための動物的・肉体的活動とは別の領域にあるように思えて、だから動物としての死と同時に精神が途絶えるという事実を想像できない。

もっと言えば、納得できない。なんで終わらなきゃいけないのだ、という理不尽な気持ちすら感じてしまう。人間の精神は、たかが動物としての肉体的活動の終了に付き合って消えていいようなものだとは思えない。動物とは別の領域にある何かなのだから。

精神が消えてしまったら、もうマジで終わりじゃないか。今ここにいる「自分」が消えてしまう。「自分」を知覚している自分も消えてしまう。無情すぎないかそれは。許されるのかそれは。今まで僕はこの世の中に生きてきて、色々な事を見聞きしてきて、それらを元に色々な事を考えてきたのだけど、死んだら全部終わりかよ。

当然必ず訪れる動物的・肉体的死と付き合って精神まで消えることに対して、謎に理不尽な気持ちがある。必ず死ぬ動物がこういう精神を持ち合わせるのって、豚に真珠みたいなものだ。「なんで豚なのに真珠なんて持ってるんだよ」という、人間の仕様に対する理不尽な気持ち。

豚と同じ哺乳類なのに真珠なんて謎に持ってるせいで、僕は死ぬのが怖い。自分の精神が消える事を想像できないからだ。想像しようとしても、ただ暗闇を見つめるだけの感覚に陥る。

大切な人に死なれるのも怖いし、実際に死なれるととても辛い。大切な人との死別によって、人生観が変わるほどの影響を精神に受けた経験がある。

他の多くの哺乳類と同じように、生命維持のための本能に忠実に食べてうんこして寝てるほうが楽だし、幸せだったようにも思える。「幸せ」という概念を生じさせるのもまた人間的な精神によるものなのかもしれないが。

 

それでも死を受け入れないと今を生きられない

そんな感じで、僕は死に対して受け入れがたい理不尽な感覚を抱いている。

それでも「自分はいつか必ず死ぬ。死んだら肉体だけではなく精神も終わり」という事実や、さらには「いつ何が起きて死んでもおかしくない」という事実を受け入れないことには、今を生きられない感覚がある。

理由は2つある。第1に、死を受け入れないと、漠然と人生がいつまでも続くような錯覚に陥り、惰性で退屈な日々を過ごしてしまう。「いつか楽しくなればいいなあ」なんていう他力本願な願望を抱いたまま、何も行動せず時間が過ぎていく。経験済み。

第2に、死(≒精神の終了)を直視していかないと、見たくないことを見ないようにしている不安がある。重要だけど怖いことをスルーしている感覚。虫歯の不安があるのに歯医者に行ってない的な。親知らずが抜くべき状態になっていることを知りながら、歯茎を切開して骨を砕いて抜歯するのが怖くてしばらく見て見ぬフリをする的な。つい先日までの僕のことだ。

抜くべき親知らずを見て見ぬフリをしている居心地の悪さを10倍ぐらいに強めたものが、死を直視しない場合に生じる。その居心地の悪さが今日1日を生きることの邪魔をしてくる。

という2つの理由があるので、受け入れがたい理不尽な死(精神の終了)であっても、直視して無理やりにでも受け入れていかないことには生に集中できない。

死を直視しないと生きられないという理不尽。理不尽なことばかりだ。豚に真珠なんて持たせるからややこしい事になる。でもしょうがないので、強引にでも、開き直ってでも死を受け入れて、貴重な今日1日を生きていきたいとは思う。

 

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